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弁護士大久保康弘のブログ

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小林秀雄を巡る3冊の本-「小林秀雄の恵み」「ドーダの人 小林秀雄」「なにもかも小林秀雄に教わった」

今時、小林秀雄とはアウトオブデイトも甚だしいのですが、たまたま最近2冊の小林秀雄に関する本を読み、それぞれ面白いところがあったのでその2冊と、以前読んだ木田元の本も加えて小林秀雄について考えてみることにしました。

 

まずは、橋本治小林秀雄の恵み」から。

 

小林秀雄の恵み (新潮文庫)

小林秀雄の恵み (新潮文庫)

 

 この表紙がなかなかしゃれていますね。新潮文庫の小林の著作がこんな表紙でした。

この本の存在はこれまで知らなかったのですが、ブログ「日々平安録」

http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/searchdiary?word=%2A%5B%B6%B6%CB%DC%BC%A3%A4%CE%B7%C3%A4%DF%5D

に教えてもらいました(ちなみに後述の鹿島茂「ドーダの人 小林秀雄もこのブログに教えてもらいました)。

ここには「日本人が小林秀雄をどのように読んだか」について書いたとあり、それなら今読む意味もあるだろうと思い、読んでみましたが、残念ながらその点について明確に書かれていたわけではありませんでした。

その点についてはこの本ではなく前述の「日々平安録」での指摘が鋭く、文学的ロマン主義とその克服が近代の課題であったが、小林はロマン主義の克服をロマン主義的に行ったということが鍵になるようです。例えば、魚を釣った話を書くのに、魚そのものの描写をせず、釣る手付きを描写することなど。

 また、小林秀雄がなぜ一時代前の入試によく出たかについては、直接書いていないことを読み取る能力を試すには適していたからだとか、なかなか面白い指摘がありました。

 

私がこの本から得たのは、以下の2つの点です。

まずは本居宣長についての情報。

本居宣長の歌は下手の横好き。

源氏物語の作中歌は、物語をなり立たせる地の文章を土壌として生まれる登場人物の生の声である。

宣長にとって桜は愛人であった。

 

2点目は日本の近代について。

日本の学問は、戦国時代の終わった近世の始まりとともに生まれ(儒教ルネサンス。それ以前は仏教しかない。)その中心人物である中江藤樹は、「世の中に身分の差はあるが、それと学問をすることは関係がない」ことを明らかにし、それが本居につながる。

ということです。

  

以下は私の個人的感想です。

この本で、本居宣長が「何で学者として振る舞わず医者として振る舞うのか」という疑問がありましたが、儒者なら学者の道もあるが、国学者など学者として扱われていなかったのからではないでしょうか。

「近世は既に近代だった」という点についてですが、私が今年読んでこのブログでも取り上げたことのある「江戸の読書会」に教えてもらったのですが、西欧的な知識がほとんど入ってきていないので前近代と思われている近世についても、読書会という空間での議論により、近代の下部構造はすでに準備されていたのかもしれません。その下部構造があったので、幕末・明治期に大量に流入したの西洋の近代、科学がうまく受容できたのではないでしょうか。

橋本にとって小林は単行本「無常といふ事」(単行本は戦後に出たが、戦時中に文學界に発表されたもので、当麻、無常といふ事、平家物語徒然草西行、実朝というラインナップ) と本居宣長ということでしょうが、一般的にはランボオとかモオツアルトとかゴッホについて自分語りをした人というように捉えられているのではないでしょうか。もし、「日本人が小林秀雄をどのように読んだか」について考察するのであれば、そちらをメインにした方がよかったのではないでしょうか。

 

次は鹿島茂「ドーダの人 小林秀雄」。

 

ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて
 

 

小林秀雄が「ドーダの人」つまり、えらそうなことを言って相手に凄いと思わせ、それを聞いた人がははーと平伏する、そういう人だというのですが、まあそれを「ドーダの人」と言っても新しい発見でも何でもないのですが、この本ではなぜみんながそのドーダにやられたのか、ということを考察しています。つまりこれは前記の「小林秀雄の恵み」がやろうとしていた、「日本人が小林秀雄をどのように読んだか」を考察してみたものではないかと思います。

 

なぜこの「小林秀雄ドーダ」が当時の日本を席巻したかについては、「ランボーのヤンキー的解釈」というところに答えがあります。人間にはコンスタティヴ(書く作家)とパフォーマティブ(書かない作家)という2種類があるとして、後者はヤンキーであり坂本龍馬など、日本人の多数に人気があるのはこういうヤンキー人間であるとして、小林秀雄もそうだとしています。

で、そのヤンキー的人間の特徴はというと、斎藤環氏が「世界が土曜の夢なら ヤンキーと精神分析」で述べていることを引き

①行動重視②分かりやすい価値観③結果より過程、現在進行形であること④広義の保守性というか、「筋を通す」「完全燃焼」という美意識⑤ほどほどの不幸や意外な過去という「物語性」⑥和のスタイルを基本にして洋を吸収消化したバッドテイスト⑦地に足の着いたリアリズム⑧情緒や関係性を重視する女性原理での男性性、ファンシー性との融和性⑨反主知主義。熱い感性に基づき判断⑩自由主義集団主義の折衷

⑪「逸脱」と「様式」の換喩的連鎖「つぎつぎになりゆくいきほひ」

という要素があるとして、小林秀雄はその特徴にぴたりと当てはまるといいます。

また、ランボーは野蛮人であるというのも小林秀雄の願望で、自分が野蛮人になりたいと思っていたときに、ランボーに出会い、「ランボーは野蛮人だ」と決めつけたのです。 

 

この本を読んで良かったと思うのは、ランボーの本当の凄さ(ポップでアバンギャルド、文体が次々と変わる語り口)が分かったことです。この点、小林の解釈は間違っていて、自分の願望に過ぎないといえます。

またフランス語の理解やランボーの解釈などは畏友の河上徹太郎の方がよほどちゃんとしているということも判りました。

 

しかし、だからこそ小林秀雄が熱狂的に読まれたのでしょう。事実がどうであろうと、自分がこうあってほしいというようにランボーを捉えたそのロマン主義、半端ない熱量、強引さのゆえに、みんな熱狂したのでしょう。日本人はこういう強引なロマン主義者に弱いのですね。逆に、河上徹太郎のような透徹した論理的思考はあまり評価されません。そちらに耳を傾けた方がいいと思うのですが、なかなか難しいでしょうね。

  

ついでに、少し前に読んだ本ですが、「なにもかも小林秀雄に教わった」という木田元さんの本もここでとりあげることにします。

 

なにもかも小林秀雄に教わった (文春新書)

なにもかも小林秀雄に教わった (文春新書)

 

この本は「なにもかも小林秀雄に教わった」といいながら、70頁でようやく小林秀雄が出てくるように、実は全面的に小林のことを書いたものではなく、ドストエフスキーキルケゴールハイデガーと木田さんの著作ではおなじみの名前が出てきて、その方々と小林がからんでくる、というものです。モーツアルトゴッホについてハイデガーと小林がどう論じたかを比較していて、そのあたりは面白いのですが、この著作の白眉は最後の「小林秀雄保田與重郎」の章でしょう。実はそこでも名は体を表さずで、実はその内容は「保田與重郎ハイデガー」なのですが。それはともかく、この碩学が、保田與重郎について書き残してくれたことが何とも貴重だと思います。

 

さてこれらの著作から分かるように、小林秀雄はふた昔かそれ以前の知的階級の必読書だったわけですが、まあ要するにロマン主義にやられてしまったわけですね。中二病ということばがありますが、若い頃に、ある程度自意識過剰になってしまうと、なぜロマン主義に走るのか、それは考えるに値する論点だと思います。

しかし、ロマン主義とか何とか言っているうちに、諸科学の進歩はめざましく、こんなのを読んでいる場合ではない、と頭を殴られるような本を読んでしまいました。それについては次回。