弁護士大久保康弘のブログ

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「戦争まで」加藤陽子

 

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

 

今年読んだ本の一冊目。加藤陽子さんの著作は出たら読むようにしていますが、これは昨年出たものです。

サブタイトルが「歴史を決めた交渉と日本の失敗」とあります。

太平洋戦争を回避する選択肢はなかったのか、について、リットン報告書、三国同盟、日米交渉の3点を取り上げ、高校生などに対する公開授業として議論をすすめていきます。

 

1章で面白かったのは663年の白村江の戦いに敗北した後の日本の唐に対する態度です。676年、朝鮮半島新羅により統一された後、日本は702年に遣唐使を再開しますが、その際に遣唐使粟田真人は、自らを倭国の遣いではなく、日本という新しい國の遣いだと主張して唐との関係を築く。日本書紀はそのための書物だというのです(天皇の歴史1巻、大津透)。

 

2章からは本題に入ります。

ここからの記事は次の著者へのインタビューも参考にしました。

www.huffingtonpost.jp

 

2章はリットン報告書について。満州事変を調査したリットン調査団は大阪にも来ていて、本町の綿業会館も訪問しました。数年前にその綿業会館を見学したことがありますが、重厚な近代建築でした。

リットン報告書は、当時受け止められていたように単に日本を糾弾するものではなく、現実的な解決を提案するものでもあったことは、最近そのように言われることが多くなってきました。

以下は前記インタビューからの引用です。

報告書は「張学良政権への復帰は認められない」と書く一方で、「現在の満州国そのままの存在も認めない」と書いていたので、一見すると日本側に厳しいように見えます。しかし、将来この地域につくられるべき仕組みは「過激なる変更なくして現制度より進展」させうるとも書いていた。つまり「満州国の制度からスムーズに移行しうる制度だよ」と。

さらに、日本にとって好条件もあった。具体的には「新政権を現地に作るための諮問委員会メンバーの過半数を日本側とし、また外国人顧問のうち充分な割合を日本側が占めてよい」ともいうのです。

当時の日本政府もジャーナリズムも、32年10月に公表されたリットン報告書に対し、中国側に肩入れしたものという評価を下し、その内容を精査せず徹底的に批判しました。私が惜しいと思うのはそこで、リットン報告書が展開していた日本側への妥協的な選択肢を見ていなかった。

日本側は、「リットン報告書が満州国の存在を認めている」との根拠のない楽観的な下馬評を信じていたため、実際に報告書が出た時には狼狽し、文書の正確な含意を読み取ることができませんでした。 

「しかし世界の道というものは存在しています。もしあなたが世界の道を受け入れるならば、なおいまだそれは遅くはありません」というリットン報告書の解決のための提案は残念ながら受け入れられませんでした。

 

3章は三国軍事同盟について。

この同盟が結ばれるまでわずか20日間しかなかったこと、実はこの同盟はドイツとイタリアには有利だが日本には不利なこと、にもかかわらずわずか20日で同盟を締結した理由として、「ドイツが勝って終戦というシナリオ」にどう対処するかという問題が存在したということを挙げています。「大東亜共栄圏」もそのためのものです。現実にドイツは敗北したのですが、当時はドイツの勝利はかなり確かなものと考えられており、その要素を忘れて同盟締結の理由は理解できないということです。我々は第二次大戦でドイツが敗北したことを知っていますが、それゆえ1940年当時、ドイツが勝つという予測が強かったことに思い至らないのでしようが、当時の人々の頭になって考えないと分からないというのはその通りです。これは太平洋戦争を描いたドラマなどによく「日本は負ける」という予言をする人が出てきますがこれも当時の人々の頭ではないということでしょうね。

 

 以下インタビューからの引用です。

――三国同盟については、日本ではよく「快進撃を続けるドイツと結ぶことで『バスに乗り遅れるな』」と、勝ち馬に乗ろうしたという文脈で語られる思います。

たしかにそれは間違いとは言えませんが、当時の政策決定者の視点が抜けています。

日本がドイツとの同盟を選んだ理由は、大西洋と太平洋でアメリカを牽制するためにあったのではありません。むしろ、ドイツが電撃戦で降伏させたオランダやフランスが東南アジアに持っていた植民地の処分問題が日本側の念頭にあった。オランダ領東インドの石油、フランス領インドシナ(現在のベトナムラオスカンボジア)の米などは、総力戦を支える資源として重要でした。

三国同盟調印の2カ月間前(1940年7月)、外務省と陸海軍の担当者が参集し、何を話し合っていたかといえば「ドイツの勝利で第二次世界大戦が終了してしまった場合どうなるか」ということです。

「大東亜新秩序建設」という言葉が、なぜ使われ始めたか。東北学院大学教授の河西晃祐さんは「植民地宗主国を抑えたドイツによる、東南アジア植民地の再編成の可能性を、参戦もしていない日本が封じるための声明として」という見解を唱えています。来たるべき講和会議に、ドイツ・イタリアの同盟国として日本が乗り込む時、このような声明が有効だというのでしょう。鋭い見方ですね。

なおこの河西教授の本も後で紹介する予定です。

4章は日米交渉について。

この問題についても、我々は最後にハル・ノートをアメリカから手渡され、開戦となった経緯を知っていますのでそれまでの交渉もあまり熱がこもっていないと思いがちですが、日米首脳会談は実現する可能性がおおいにあったと。

結局日米交渉が挫折したのは、会談計画が漏れてしまったことが原因のようです。

以下はインタビューからの引用です。

――日米とも衝突は避けたかったけど、実際には戦争へと至りました。なぜでしょうか。

いくつかの答えがあります。一つには、最も有望視された近衛文麿首相とルーズベルト大統領の洋上会談計画が、日本国内の国家主義勢力に漏れ、極めて効果的な批判がなされ、つぶされたからです。彼らは近衛首相のことを、「ユダヤ的金権幕府を構成して皇国を私(わたくし)」する勢力の傀儡だと批判しました。

 2つの階層が文化的思想的に交わっていなかったといえる。これは日本の教育の問題でした。社会の階層間をつなぐ、文化的な中間的な装置を欠く社会は、強固な決意を持ち、既成政党や財閥打破を掲げて国民を動員しようとした軍部のような存在の前に極めて脆弱でした。

以上、戦争に至る前にはいろいろな選択肢があったことを教えてくれる著作でした。この本がかなり読まれているのはいいことだと思います。