この本は書いてあることそのものは面白かったのですが、ただし分析の前提となる枠組みがきちんと考えられていないのが勿体なく思いました。
この本によれば「意識高い系」とは、具体的なスポーツなどを目的としたサークルではなく、抽象的な目的のサークルを立ち上げ、パーティーに参加してそれをインスタグラムやフェイスブックに上げるような人と定義しています。
ただボランティアとか海外交流などの要素もあると思うのですが、そこはそれほど触れられていない。
また著者によれば「意識高い系」の対概念は「リア充」であり、「リア充」とは、地元でずっと過ごして太い人脈がある人のことであり、彼女がいるとかいないというのは関係ないということでしたが、これはちょっとずれているのではないでしょう。
このような地元人脈系は「地元土着充実系」とでもすればよいと思います。またさらに附属からエスカレーター式に大学に上がった学生もリア充としていますが、これは単に「私立大学内部進学系」あるいは金持ちのボンボンとでもすればよく、この両者は、上昇志向不要という点で共通点がありますが、明らかに別種で区別すべきでしょう。
また「意識高い系」になってしまうのは、(著者の用語で言う)「リア充」になれないからそのリベンジというのですが、「意識高い系」はそれだけをルーツに持つのではないだろうと思う。ただ単に横文字にあこがれる奴(昔でいうとカタカナ職業というやつ。デザイナーとかエディタとか)というルーツもあるのではないか。またピースボートなんかもそうでしょう。
問題は「三次元をあきらめた系」とでも名付けられる方々の存在が全く無視されていることで、このカテゴリーの方にとっては地元系でも意識高い系でも地元土着系でも私立大学内部進学系でも彼女と楽しくやっていればリア充爆発というやつで、ここから見れば本当のリア充であろうが似非リア充であろうが同じなのではないでしょうか。
書いていて何を言っているかよく分からなくなってきましたが、要は、「意識高い系」は真のリア充ではない、といっても、なんだかなあ、という感想につきます。