昨日のことですが、内田樹氏のある韓国の詩人の詩集についての書評がTwitter上で批判されていました。どのような批判がなされているかというと、冒頭から4分の3が、本の内容と直接関係ない自分語りに費やされ、最後にようやく内容に触れる、というスタイルが問題視されているらしい。おお、これはこのブログで取り上げたロキノン文体という奴ではありませんか。
ありがたいことに、この書評の関係でこのブログを検索して見ていただいた方が結構いらっしゃるようで、「注目記事」の一位になっていました。
ということで今回はロキノン文体にて書いてみます。
6月に入り、緊急事態宣言も解除され、ようやく日常が戻ってきましたが、いわゆる自粛期間中は、精神状態を保つのが大変でした。
これはもちろん感染が怖く、感染により身体が危険に直面するということもありますが、より根本的には、疫病が人権の根底を破壊することが精神状態を保つのを困難にすることがあるのだと思います。
これは、疫病のパンデミック対策として、政府や自治体が行動の制限や行動の追跡などをすることによるプライバシーの制限ということを言っているのではありません。
もちろんそのような制限は人権にとって危険なものではありますが、より本質的なことは、疫病の防止のために、個人の存在は消されて人間が統計的に扱われざるを得なくなるということです。
緊急事態宣言に伴う、移動の自粛や、多人数で集まることの自粛には、従わざるを得ないのですが、考えてみれば、ウィルスを持たない人だけの集団であれば、移動しようと多人数で集まろうと、感染は拡大しません。個人主義的に考えれば、自分はウイルスに感染している可能性がほぼないと考えて、他人であるウィルスを持つ人だけの行動を制限すれば感染は拡大しない。したがって全国一律の制限は行き過ぎである、と考えてしまっても不思議ではありません。
しかし、新型コロナウイルスは潜伏期間がある程度長く、自覚症状がなくともウィルスを保有している可能性はどうしても消し去ることができない。その可能性が否定できない以上、いくら自分で大丈夫だと思ってみても、感染し、それだけでなく他人にウイルスを伝播させる可能性はあるのです。このような状況下では、人間を個性を持つ個人として扱うことはできなくなり、ある程度の確率でウイルスを保有している統計的対象として扱う他ない。これが人権との対立の本質なのです。
4月頃、カミュのペストが売れて、「一人一冊」に制限された本屋さんもあったようです。家の奥から出てきたので読みましたが、カミュのペストの主題も、個人が個人でなく、確率的な存在として扱われること、にあるのではないでしょうか。