弁護士大久保康弘のブログ

大阪の弁護士です。お問い合わせ、ご依頼はy-okubo@gf6.so-net.ne.jpまで

角田光代さんの「対岸の彼女」と「私のなかの彼女」

先日、角田光代さんの「私のなかの彼女」を読み、このエントリを書こうと思いつきました。

これまで角田さんの作品はたくさん読んできましたが、その中で一冊挙げるとすれば、「対岸の彼女」です。これには泣かされました。 

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

主人公は2人の女性、小夜子と葵で、その2人の現在の関係を描く最初のパートは淡々と進んでいきます。正直言ってこの部分はあまり面白くないので、うーんこれはいまいちかなと思っていたところ、葵の過去編になって、この物語のキーパーソンである、葵の高校時代の親友、ナナコが登場してから物語は急展開し、俄然ひきつけられ、この物語から離れられなくなりました。

この高校時代のパートには、地方に暮らす女子高校生の恐ろしいまでの絶望と孤独が切実に描かれていました。

ナナコの家に葵が無理矢理押しかけたときの描写ですが、その家は

「見たことのないような空間だった。散らかっていたわけでも、汚かったわけでもない、ただ何か、人が住んでいる場所に葵には思えなかった」

 というような状況でした。にもかかわらず、ナナコは何とか生きようとします。

そして次第に、もうすぐ、とんでもないことが起きるに違いない、という不穏な雰囲気が高まってきます。そして実際にある事件が起きるのですが、その事件の後の描写は、実に切ないもので、そこを読んだ時、電車の中であることを忘れて、大泣きしてしまいました。

このナナコに強烈な印象を受け、後に映画化された時に多部未華子がこのナナコの役を演じたのですが、ああ、この役は彼女しかできないと思ったのでした。

 角田さんの作品は、冒頭に書いたように結構読んでいますが、初期の芥川賞狙いの中編は、いったい何が面白いのかまったく分からず、その後で路線を変更して物語性を強調するようになり面白く読めるようになり、「空中庭園」を初めとする主人公がリレー式に次々に代わっていく連作集は、よく考えられており、読んでいる時は面白かったのですが、それほど心に残る作品はありませんでした。

そんな中で「対岸の彼女」を読んで感銘を受けたのですが、その後、「八日目の蝉」「紙の月」などはかなりのヒット作になったのですが、よくできたお話しという感じで切実さはあまり感じられませんでした。

しかし、今回読んだこの「私の中の彼女」は違い、久しぶりに感銘を受けました。

 以下、ネタバレもありますがご容赦ください。

私のなかの彼女 (新潮文庫)

私のなかの彼女 (新潮文庫)

 

 

 「私のなかの彼女」に感銘を受けたのは、主人公が女性の作家で、作品に自身の体験が色濃く出ているところにあるのではないかと思われます。

主人公の女性は実家の藏にあった祖母の本を見つけてから、小説を書こうと考えるようになり、売れっ子の作家になった恋人と同居しても、小説を書くことに集中するあまり、他のことは何もできない状況になってしまう。

そして主人公は結局恋人と別れることで、いろんなことが動き出します。

ラスト近くで、別れた恋人との関係を小説にして評判になり、ようやく作家として認められるようになった後で、偶然にその恋人と再会した主人公は、 「私たちって、なんで出会う必要があったのかな」と言ってしまいますが、これは実に切ない一行でした。

 「対岸の彼女」ほど大泣きはしなかったのですが、少し泣いてしまいました。