先日こんな本を読みました。いつもの調子でアウトオブデイトだと思っていたのですが、なぜか知らない間にタイムリーになっていたようです。
「お金」って、何だろう??僕らはいつまで「円」を使い続けるのか?? (光文社新書)
- 作者: 山形浩生,岡田斗司夫FREEex
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2014/11/14
- メディア: Kindle版
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なぜこの本を読んだかというと、図書館のサイトで山形浩生氏の著書を検索したらヒットしたので借りてきたからです。岡田斗司夫氏に興味があったわけではありません。
しかしこれは岡田斗司夫氏が毎回ゲストを迎えて自分の理論を吟味してもらうというシリーズの一冊のようで、岡田斗司夫氏がメインのようで少しあてが外れましたが、せっかく借りたので読むことにしました。
で、ちょうど読んでいた時にキングコング西野氏が自身のブログでこんなことを書いて話題になっていたわけです。
ここでの西野氏の考えはどうやら岡田斗司夫氏の主張と関連があるようです。
さてこの本ですが、「評価」は「貨幣」の代わりに使えるか?というのが第3章の見出しであり、要は岡田氏の主張のメインはこのような「評価経済」というものらしいです。
私はこの主張は無茶なものだと思い、同意はできないのですが、じゃあ読む価値がないかというと、山形氏が問題点をうまく指摘しているため、書籍としては読む価値があるものになりました。
この「お金ってなんだろう?」は全編に亘って岡田氏の無茶な主張が繰り広げられるのですが、特にひどいと思ったのは公共サービスに関する箇所。
山形氏の「うーん、公共サービスを評価経済で運営できるかどうか。下水道を造れますか?」という質問に対し、岡田氏は「江戸時代の大店の旦那やヤクザの親分は、稼いだお金で用水路など地域のインフラを造っていたじゃないですか」という返答をしました。
しかしこれは、インフラを造る主体が政府でなくても民間でもいいのか、という論点であって、評価経済でインフラが造れるかという質問に対する返答ではありません。いつの間にか論点がすり替わってしまっています。岡田氏は評価経済でインフラを造れるだけの「稼いだお金」の蓄積が可能なのか?という問題には答えていません。
そもそも評価経済では大店なんか存在できないことは岡田氏も承知のはずだし、評価経済でお金は貯まらない、というかそもそも富が集中することに対するアンチテーゼとして評価経済というものを考慮したはずではなかったのでしょうか。それなのに大店の旦那やヤクザの親分がインフラを造るから問題がない、というのは矛盾が甚だしいし、またこれではヤクザが必要だという理屈になってしまいます。
まあ一時が万事この調子で、岡田氏の主張には賛同できないのですが、山形氏の冷静なツッコミは見事だったので何とか最後まで読めました。