弁護士大久保康弘のブログ

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頼山陽とナポレオン「江戸のナポレオン伝説」

福田和也の「読書脳」を読んでいたら、いろいろな書物を紹介している中で、「ナポレオン言行録」の項があり、その中で江戸時代から日本人がナポレオンを知っていた、という話になって、この本が紹介されていました。

 

 

この本で、日本で一番に近い早さでナポレオンを知って、いち早く漢詩にして世間に広めたのは頼山陽だということを知りました。

頼山陽は、「日本外史」で名高い漢詩人ですが、ナポレオンを紹介した漢詩があることは今まで知りませんでした(私が持っている旧版の「頼山陽詩鈔」にも入ってないし。なお新編の頼山陽詩鈔には収録されています)。

頼山陽が、1818年、長崎に遊びに行ったところ、たまたまナポレオンのロシア戦役に従軍したオランダ人と会うことができ、その人からナポレオンのことを聞いたことがきっかけでナポレオンを知り、「仏郎王歌」という漢詩にして発表したのですが、何という引きの強さだろうと思いました。頼山陽もナポレオンという英雄の存在と、その栄光と悲劇を知り、これは自分が日本に広めないと、という使命感を持って仏郎王歌」を詠んだのだと思います。

 

ところが頼山陽仏郎王歌」について、中村真一郎の「頼山陽とその時代」では、後の大槻磐渓の「仏朗王詞」に比べて評価が低く、「山陽は京都の田舎者に過ぎない」と言われています。

 

しかし大槻磐渓「仏朗王詞」は1841年に作られた(なお「江戸のナポレオン伝説」ではそれより後の可能性が高いことを示唆しています)とされており、ナポレオンが没後20年で遺骸がパリに戻ってから後の成立です。これに対し頼山陽仏郎王歌」は1818年で、まだナポレオン存命中、ロシア戦の1812年から6年後に詠まれたものです。

前田愛は「(「仏朗王詞」)の正確さには、時代の違いからは説明できない何かがある」としていますが、この20年は大きいです。

頼山陽仏郎王歌」の内容は、不正確な点があることはともかくとして、チンギスハーンの遠征と、ナポレオンのロシア遠征を、同じような英雄の行動と捉える浪漫的なもので、まあ大時代的といえばそうでしょうが、とにかくナポレオンという馬上の世界精神(©️ヘーゲル)を日本に知らしめた功績は凄いと思います。のちに吉田松陰が書簡でナポレオンに触れているように、勤王の志士たちにナポレオンに対する関心を高め、倒幕のエネルギーを高めることになったのも、頼山陽の「日本外史」とこの仏郎王歌」あればこそだったのではないでしょうか。そういった意味で仏郎王歌」は、日本の歴史を変えた一編と言えるでしょう。