5月6日に京都国立博物館で開催されている池大雅展を見に行きました。
連休の最終日ですが空いていました。まあ京都駅もそれほど混雑してはいなかったのですが、池大雅自身も今は人気がないというところが本当でしょう。チラシに85年ぶりの大回顧展とありましたが、このように長らく回顧展が開催されなかったのも大雅が人気がないからではないでしょうか。
今回は池大雅の画自体の感想ではなく、なぜ池大雅に人気がないのか、また私が池大雅を面白いと思わないのかについて書きたいと思います。
池大雅の画はほとんどが中国様式の風景画で南画といわれるものです。
芸術新潮18年5月号の特集「最強の日本絵画100」では、池大雅も選ばれていますが、選者の一人である山下裕二さんも「南画はちょっと苦手 中国的な教養をひけらかしているところが」と書かれています。
これは私も同意見、というかそもそも、自分自身の日本画の好みが山下さんに影響を受けています。赤瀬川さんとの「日本美術応援団」のシリーズで日本画などの面白さを知ったのですから。
池大雅は、風景、森や湖を描いてもその風景は日本のものではなく中国絵画のものでした。この「楼閣山水図」などはまさにそうですね。
そして風景の中にある木の表現も類型化されていて面白みがない。
例えば等伯の桜図などはエネルギーに満ちた一本の木ですし、若冲も曲がりくねった木や、葉っぱに虫食いがあるなどのリアルな植物を画いています。今評価の高い江戸絵画は明らかにそちらの方です。
今回の展覧会で一番良かったのは、五百羅漢図。これは描かれたそれぞれの表情が実に面白く楽しめました。
思うに大雅は、中国風の風景画を描く能力があまりに高かったため。肖像画にはいかなかったのでしょうが、今にしてみればこちらに進んでいればと思いますが、同時代的にはそれで正解だったのでしょう。これに比べて蕪村はあまり上手くなかったので独特の味が出て面白みがあります。
大雅も蕪村と共著の「十便十宜図」がありますが、これなどは楽しい。
当時大人気だった中国風風景画ですが、今から考えればそんな風景が日本にあるわけでもなく、せっかく力量があるならもっと日本の風景を日本らしく描いたものを見たかったと思います。「天衣無縫の旅の画家」とチラシにありますが、日本中を旅していればなおのことです。松島の画もありましたが、日本らしい松島の風景を描き残して欲しかったと思います。
南画は、中国絵画が至上のものであるいう大前提で成り立っており、その前提が崩れてしまうと、見ていて全く面白みがないものとなってしまう。そういうことではないでしょうか。